まもなく終戦記念日 ::: 2015.07.16 Thursday
- Tomoko Arahori
- 2020年7月30日
- 読了時間: 11分

※この記事は、お菓子とは全く関係がなく、おまけにとっても長文ですのでご興味ない方はスルーして下さいね。
まもなく70回目の終戦記念日。先日の夕方、靖国神社のみたま祭へ出かけてきました。
学生時代、九段坂は毎日通っていたのですけれど、神社の境内へ足を踏み入れたことはありませんでした。ただ、ちょうど東京のお盆の7月、梅雨のこの時期には、灯りのともった提灯が通り沿いにもいくつも飾られて、風が吹くたび、静かに揺れていたのを覚えています。
私には3人の祖父がいます。私の父には、2人のお父さんがいるからです。
1人は昭和19年7月、ニューギニアの海で29歳の若さで戦死した本当の祖父。そしてもうひとりは祖母の再婚相手である祖父。2人の祖父は兄弟同士でした。当時は珍しい事ではなく、よくある話だったそうですが、祖母が婚家に請われ、逆縁で、戦死した夫の弟としばらくして再婚したのでした。父にとっては、昨日まで叔父であった人が新しいお父さんになったということです。
私の父は養子となり、後に生まれた他のきょうだいと分け隔てなく育ててもらい、真っ当な大人に育ちました。(笑)
ただ、私は子供の頃、祖父にはいつも敬語を使っていた記憶があるのです。
祖母はいつもニコニコと優しくて大好きだったのだけど、祖父は無口で、お硬いイメージがあったのです。親族集合の時は、おばあちゃんと会えるのはとても楽しみなのだけど、祖父と会話する事を考えるといつもかすかに緊張していました。
その祖父は自宅で74歳で亡くなったのですが、亡くなる前の数か月の間は自宅で療養をしていました。ある年の秋も深まった頃、もう、最期かもしれないから、と両親に連れられ、きょうだい達とお見舞いに行きました。その別れ際、祖父は、私に「バイバイ」と優しい顔で手をふってくれました。
私は祖父に、バイバイと手をふってもらった記憶がその時までなく、もちろん赤ちゃん時代にはあったかもしれませんが。。。あんなに優しい表情の祖父も見たことがなく、当時24歳の私には、かなり衝撃だったのです。
だからでしょうか、あぁ、これが本当の最後になるのかも、とふと思ったのですが、これはまもなく現実となってしまいました。
今思うと祖父は遠慮していたのかな、というか、ちょっと照れていたのかも、とも思うのですが。。。
聞いてみる手だては、今はもうありません。
☆
今年の春のお彼岸に実家へ遊びに行った時、仏壇にお線香をあげたあと、父に、本当のお父さんの事は何か覚えてるの?と聞きました。
自分は数え3歳(満2歳)だったので何も覚えていないけれど、
戦後すぐは遺族会、戦友会などの集いに祖母も参加していたので、祖父の事を知る人と話が出来たので、いろいろ思い出を聞いていたそうでした。ただ、再婚してからは多分遠慮もあったのでしょう、遺族会にはあまり出かけなくなり、また周りでも親兄弟を始め、身近な人を亡くした人は多かった。前を向いて歩いていくのにみんな一生懸命で、積極的にあまり調べようとはしてこなかったそうです。
ただひとつ、その日に父から初めて聞いて、切なくて胸が締め付けられそうになったことがありました。
所属する飛行戦隊が、南方に向けて出発する時、見送りに集まった飛行場近隣の住民の群集の中で祖母に抱かれて見送った父は、自分のお父さんの操縦する飛行機が見えなくなると、「行っちゃった。。。」とつぶやいたのだと。傍らで一緒に見送った、当時まだ学生だった叔父から戦後何度か聞いたそうです。
3才だった父が、3才の男の子が、自分のお父さんの乗った飛行機を見送りながら「行っちゃった」と言ったのが、今生の別れとなったこと。
そんな悲しい話を淡々と父が話すのを聞いていたら、なんだか胸がいっぱいになり、何も言えなくなりました。
帰宅して、それから時間を見つけては、主に夜更け、インターネットで私は調べ始めました。
70年前の人ですから名前を検索しても出てくるはずもありません。
ただ、勤務していた柏飛行場、松戸飛行場や、熊谷陸軍飛行学校の分教所である銚子の下志津飛行学校で教官をしていたこと、乗っていたのは屠龍という戦闘機という名前だったということ、そんな事を元に、調べて行きました。
少しづつ、いろんなことがわかってきました。柏に展開していたのは陸軍飛行第5戦隊という部隊だったらしいということ。陸軍部隊の当時の行動の詳細は、「西部ニューギニア陸軍航空作戦」という本でわかるらしく、その本は、市場には出回っておらず、国会図書館に所蔵してあるという事など。
なので、出向いて読んできました。
そして、祖父が乗っていたという双発戦闘機 屠龍というかなりマニアックな本を購入。
アマゾンから届いた箱を開けて、出てきた本の題名を眺めた長女には、ママがにわか軍事オタクになった、と思いっきりひかれました。^^;
読み始めたのは数日後でした。
夜、布団に入って何ページか読み進めていき、とうとうそこに、祖父の名前をみつけました。
その時の気持ちは。。。
会ったことのない、まだ20代の若者だった祖父が、本の中で飛行機を操縦したり、活躍したりしょんぼりしたりしているのを見た気持ちは。。。なんと表していいのかわかりません。
ただ、昔から実家の仏壇で眺めていた、飛行服姿で悠然と微笑んでいるモノクロの遺影の祖父が、生き生きと動き始めたような、とても不思議な、感無量な感覚でした。
むさぼるように読みました。そして、もっと何かわかることはないかと、本のあとがきで参考文献として紹介されていた本をあたって探しました。
柏飛行場の整備隊長であり、また戦地では飛行場中隊長だった銀座の木村屋(あんぱん)の5代目社長、木村栄一氏が書かれた「南十字の夢のあと」という本は千葉県の古書店にあるのがわかりネットで購入しました。そしてあとがきの中でも登場された伊藤藤太郎氏の書かれた「激戦の空に生きて」という本は市場にはなく、こちらは国会図書館に所蔵されていることがわかったので、その週末の土曜日に出かけました。週末は図書館も混んでいるので申し込みをしてから手にするまで20分ほどかかったでしょうか。
伊藤藤太郎さんは、祖父の柏飛行場時代からの同僚だったのでした。
片隅のテーブルに座り、読み初めてすぐ、父が「行っちゃった。。。」と祖父の飛行機を見送った柏飛行場を出発するシーンが出てきたのを読んだ時は、涙があふれて止まらず、困りました。この群衆の中にかつての若かった祖母と3才の父がいたのだと。
出発してから、ジャワ島マランにつくまでの道中、祖父たちは上海では夜の共同租界に出かけてカフェに入りコーヒーを飲んだり、また、マランでは白い麻のスーツにサングラスと帽子で決めたり、と楽しいエピソードも多く、クスリと笑ったりもしましたが、最前線では息をのむような過酷な事も多かったようです。
祖父が同僚と2機で海上を哨戒中、当時日本軍機では珍しかった双発(エンジン2つ)の屠龍のシルエットは、海軍の九三四空の飛行機に敵機と間違われ攻撃をされたそうです。最初は冗談だろうと思っていたけれど、そうではないと気が付き、慌てて翼を振って味方であることをアピールしましたが、間に合わず、同僚は自分の目の前で撃墜されてしまったこと。その事を海軍は最後まで認めなかったと。
でも、味方同士の誤爆は、たまにあったようです。
引き込まれるように読みましたが、時間が足りなくて一度では読み切れず、何回か足を運び、父にも読んでもらいたくて、祖父が出てくるページを全てコピーして、実家へ持って行きました。
と同時に、やっぱりこの本の現物を読んでもらいたいと強く思いました。
著者である伊藤さんは30年近く前にお亡くなりになられたのですが、この最前線を幾多の困難を乗り越えて強く生き抜き、本土上空戦もくぐり抜け、戦後は大阪の枚方市で工務店、建設会社を経営され、地域のライオンズクラブの常務もされた名士でいらっしゃいました。
本の最後のページに伊藤さんのご連絡先が書かれていたので、私は勇気を出して手紙を書きました。
もし可能でしたら、本を1冊、お譲り頂けないでしょうか、と。
宛名の書き方はとても迷い、伊藤藤太郎様、ご家族様へ と書きました。
お会いしたことのない、70年前に戦死した、私も会ったことのない祖父の後輩である方のご遺族に、お願いのお手紙を出す、というのは初めての経験で、(そうそうあることでもないですよね。^^;)
もちろん、そのご住所に、伊藤さんのご遺族がまだお住まいかどうかもわかりませんでしたから、半分
は、私はとても無理な事をしているなと思っていました。
しばらくして、小包が届きました。
藤太郎さんの息子さんが、丁寧なお手紙とともに、この本を送って下さったのです。
すぐに御礼状をお送りしましたら、お電話まで下さいました。
しばしお話をさせて頂いて、お電話を切った後も、ずっと胸の中は温かでした。
ごきょうだいのお名前が、私と私の妹の名前と同じであることにも何か縁を感じました。
千葉県の県庁に問い合わせて、軍歴証明書も申請しました。海軍の軍歴証明は厚生省の管轄で、陸軍については本籍地の県庁の所轄とのこと。でも戦後の混乱期の記録なので、千葉県庁でも残っているのは全体の6割とのことでした。幸い、祖父の分は祖母が存命であることもあり、無事に保存されていました。
父の戸籍謄本や私の戸籍抄本、住民票、その他いくつかの必要な種類を添えて県庁へ送ってから1週間ほどして、届きました。
昭和10年に入営してから昭和19年に亡くなるまでの細かな記録がありました。
第2師団第4野戦病院というところに、数週間入院もしています。
マラリアや赤痢にも苦しんだのでしょうか。
父は、「そう言えば胴体着陸をしたことがあると祖母が誰かから聞いてきたことがある」と。
図書館で調べた本で知ったことなのですが、祖父が亡くなった7月1日に、陸軍の本部より祖父の所属の師団へは、南方から内地へ本土防空に備えて空中勤務者(パイロット)は全員帰国するよう、命令が出されていたのだそうです。
現場にそれが届いたのは2週間後くらいだったそうですが、もしかしたら、その命令があと2週間早かったら、もしかしたら、なんて思ってしまいました。
☆☆☆
祖母は今、94歳。認知症で、毎日デイケアに通っていますが健在です。
息子である父や叔父叔母の、もちろん孫の私達の事も、10年位前からわからなくなってしまいましたが、二十年前は、こんな手紙を私と妹へ送ってくれました。
祖父と結婚する前は、小学校の先生でした。
☆☆☆
智子さん、久美子さん
元気でいますか。
6月の初めにバリ島に行ってきました。
貴女達のおじいちゃんが戦死して50年になります。
貴女達のお父さんが3歳でした。お父さんの弟、Yおじさんは満1歳
とうとうお父さんの顔も知らずに終わりました。
戦地に出発してから時々手紙が来て 戦地の様子等を書いて、又
絵が好きだったので向こふの(南の島)風景等をスケッチして
送ってくれました。
椰子の大きな葉 青い海 白い雲 そんな風景を夢見乍ら
50年たった今も大切に保存してあります。
思いがけなく、結婚式に招かれて 地図を広げたところ
戦地から来た手紙に書かれた島々が近く
最後に敵機に応戦自爆した海にひきつけられて 行って来ました。
二日の夜 夕方から島巡りの遊覧船に乗って
暗い海を見つめ 或いは方向が違ったかもしれないけれど
日本から持っていった庭の押し花を供花の代わりに投じました。
声のない 叫びで投ず 故国の花
バリは宗教の島でとても信仰心の厚い島でした。
寺院が多く結婚式も昔の王宮でしたが 参列者も向こうの服装を借りて
珍しい式でした。
今度写真を見に来てください。
記念に買ったものです。
向こうの人たちはみな手先が器用で感心しました。
いろいろ書きたいけれど年をとったせいか疲れました。
お元気で
☆☆☆
戦死した祖父は、70年後、自分の孫がこんな風に自分の軌跡を調べるとは思わなかったでしょう。
そして、最期の際には妻である祖母と息子である父を想い、幸せを願ったと思います。
数か月間、いろいろ調べて、だいたい出来る限りの事はやりきって、いい父の日のプレゼントにもなったのではないかなと思いながら、でも、あと自分にできることは何かあるのかな、とつらつらと考えていました。
天国で今、祖父が一番願うことはと言ったらそれはなんだろう。。。
それは、妻である祖母と、息子である父の幸せだけだと思いました。
なので、久しく会っていない祖母のお見舞いに行こうと今、思っています。
でも実は、少し怖い。私の事をわからなくなってしまった祖母に会うことが。
忙しさを言い訳にして、ずっと会いに行かなかった自分を責める気持ちがあるから。
でも行こうと思います。
父には、好きな日本酒持参で、実家へもうちょっと遊びに行くように。
国会図書館へ通っていた時、国会を取り囲んでデモが行われていました。
どうか、永久に戦争の無い国に、と思います。
戦争はいつだって、国のトップが始める。
国民、兵士、一人一人は、誰1人として、相手の国の人とケンカなどしていない。だいたい戦う相手は個人的には恨みも何もない、どこの誰だか名前さえも知らない人。
戦争は、トップ同士が素手で殴り合いでもすればいい。と極論過ぎますが、心の中で思いました。
どうでしょう、非常時トップ同士単独殴り込み協定締結法案。
(※ 悪い冗談です)
さてさて長くなりました。文才もなく、見苦しい文章にお付き合いいただいてありがとうございました。
最初の綺麗なビーチの写真、これはニューギニアのリアン海岸。
かつて祖父が駐在していた飛行場のある島です。
祖父が闘っていた島々を画像検索すると、こんなきれいな風景ばかりでした。
そして追記。
私の母の父は、インパール作戦でビルマ(旧称)のヤンゴンで亡くなりました。インパールについては残酷すぎて辛く、私には調べていくことができなくなった程の過酷を極める状況でした。
3人の祖父へ、愛をこめて。一度でいいから、会ってみたかったです。

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